『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ⑪ “就労 クローズ就労での経験 オープン就労がなかった時代 -櫻井 博からの手紙”

法人本部 2018/03/14

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

就労 クローズ就労での経験 オープン就労がなかった時代

前略
荒木 浩 さま

今から20~30年前は、病気のことは話さないで就労するのが当たり前でオープン(自分の障害を話して就労する)クローズ(自分の障害のことを話さず人事面接を受け就労する)という考え方もはっきりなかった時代がありました。今ほど病気の理解もすすんでいない時代でした。

就職の面接に行っても「性格はちょっと内向的で、人間関係とか気にするタイプ」とか自分を表現して乗り切っていました。

企業のほうにも働く側にもある意味、病気が一過性と考えられていた時代でもありました。

いまでは考えられないことですが、学生時代の就活は病院から外出届をだして、面接に行き病院に帰ってくることもありました。病院からスーツで会社面接に行って病院に帰ってくると、「よ、会社員」などと患者さんにからかわれることもありました。

 

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

櫻井 博

病気になったから幸せになれた

病気をしたから得た人間関係、そして自分の悪い性格もすこしは丸くなったかと思いがあります。

病気と真剣に向き合えた棕櫚亭のメンバーとしてこの施設に参加していた何年間で考え方も価値観も変わりました。

ちいさな幸せで十分満足でき、それを他の人と分かちあえる。これはおそらく病気にならなければ体験できなかったと思います。

受験期の自分の価値観は社会的名誉とかお金持ちになりたいとか、そんな考えにあふれていた感じでした。その一方でそうじゃない、もっと違う何かがあると感じていたこともありました。その何かが病気になってわかったような気がします。お金には変えられないもの、それも病気を通じて知りあった仲間が教えてくれたようです。

それも棕櫚亭という施設に出会えたからです。病気になって幸せになれたと考えられたのも多くの同じ病気をもって生活する仲間を知ったからです。

それまでの過程をすこし話したいと思います。

辛いを乗り越えた先

荒木さんが手紙で言われた「生き抜く」というのも、私も病院の中で痛感していました。

先に就労のことを書きましたが、クローズで就職している意識はあまりありませんでしたが、(あまり病識がなかった)患者さんがいなくなっていく(ほとんどが自死)時、死ぬのもいやだが、生き続けることももっと大変でした。病院で死ぬと思っていた19歳の自分は30代にはいなくなっていました。荒木さんが辛いことを乗り越えて成長していったのと同じように辛いことは私も多かったです。

 

問題は仕事ができない

就職の面接に受かっても、現場は細かい指示もあったり、基礎的なパソコンの知識、体力を求められたりして、よく怒られていました。

例えば今日残業になりそうな時、上司と一緒に夜の9時まで仕事をして、翌日は全員が8時出勤とかもありました。自分が精神的な病をよく知らなかったぶん、休みたくても自分の状態を説明できないことが多かったです。「なんでスピードが遅いのか」という指摘が多く悩んで愚痴を言っていることもありました。病院から企業訪問していたので、昼間も眠くてしょうがなかったです。今なら病気を休息期、回復期とか考えられますが、その当時は人並みに仕事をして、現場で鍛えられた感じでした。上司の命令は絶対で、もしかしたら今で言うブラック企業だったかもしれません。仕事をして給料はもらっていたので生活にはあまり困らなかったですが、その分お酒や食事にお金を使っていました。

お酒は仕事が終わると3日に1回ぐらいは同僚、上司と飲みに行っていましたし、夕食は外食でした。

将来への望みもなく、毎日くる日もくる日も過ごしていました。

一人暮らしでしたので、気楽でしたが、今人に支えられているなかで感じられる幸せ感はなかったです。

会社を休みたくても、休めず、「とにかく出社してこい」と言われ、働き続けたという感じがします。

仕事を通じて、皆会社では仮面をかぶって演じていて、会社という舞台で踊っているような感じでした。仕事上、注意され叱責されるのも、長時間働くのも、今でいう「仕事だから」という意識が会社側には強かったです。

自分も生活の為に働いているというわりきりがありました。

「石の上にも3年」というように、長くいれば仕事に慣れてはきましたが、自分の望むような仕事はできなかったし、常に回りを気にしていました。お金は稼いでも幸せはお金を使った時だけでした。

10代で病気になり、気は弱くなっていた自分が社会参加している意識はあまりなかったです。

 

幸せ感再び

そんな中、棕櫚亭との出会いは鮮烈でした。

サラリーマンとして会社に行った帰りにふと目にした棕櫚亭という文字に触れ(その頃の棕櫚亭第一作業所)、施設長に話しを聞いてもらったのが始まりでした。施設長は自分のいうことを否定せず、黙って聞いてくれました。

後に会社を退職し、棕櫚亭に通い始めます。そこに通うことで

よく人が言う「人間関係で鎧も刀で武装しなくていい関係」に気が付き自分もその中で過ごせる幸せを感じられるようになりました。

人間関係の距離の取り方というのも、あまり実感としてもっていませんでした。

棕櫚亭での勉強会で、講師の立川社協で働いている比留間さんが、「人間関係の距離の取り方は、縮めすぎて痛い目にあったことがない人でなければ、わかりません。その経験があってはじめて距離の取り方を知る」と、言われたのが印象に残っています。人間関係で悩んでいたのは距離が近すぎてどろどろになっていたんだと、過去の記憶が思いだされました。

性格を変え、会社を変え、幸せ感を感じるまで、ずいぶん回り道をしましたが、悔いてはいないです。それがあったから今幸せと思えるからです。

荒木さんは幸せってどんな時に感じますか?

 

草々

櫻井 博

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

もくじ

 

Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ❿ “生き抜いてこそ~「辛さ」と「幸せ」の境界 -荒木 浩からの手紙”

法人本部 2018/02/28

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

生き抜いてこそ~「辛さ」と「幸せ」の境界

前略
櫻井 博 さま

風が吹くと身がすくむほど寒いと感じます。それでも気のせいか昼の日差しはほの暖かくなってきているので、わずかながら東京は春に向かっているのだなぁと思う今日この頃です。ただ全国的に今年は厳しい冬のようで、特に福井県などは今もヒドイ積雪状態で農作物などがかなりの打撃を受けているとの報道があります。「寒い冬でも、いつかやがて春に向かう」という「自然の摂理」を私は東京にいて体感していますが、一方で福井県の話を例にとるまでもなく「自然の驚異」を意識することが多くなってきました。

「自然の驚異」といえば、それをテーマとしてとり扱った「ジオ・ストーム」という映画を最近観ました。ザ・ハリウッドという作品なので好き嫌いはあるかと思いますが、「アルマゲドン」なんかが類似作品だと思います。この作品は、近未来世界の設定で、人類が国を超えて力を合わせ地球に起こる異常気象のコントロールに乗りだしたことから話は始まります。宇宙ステーションでその後の気象をうまくコントロールしていましたが、やがてウイルスでステーションが故障し、再び各地で大寒波・熱波・竜巻などの大きな問題が起こってしまいます。主人公がこの大問題の解決に乗り出す話なのですが、サスペンス的な要素もあり、すごく面白くて3回も映画館で観てしまいました。天候をコントロールする未来を想像すると、人類が神の領域に入っているような気がしますね。話の落ちにはやや不満が残りましたが、気象問題に関わらず、いくつかの意味深い問題提起をしている良作だと思いましたので、機会があれば櫻井さんにもぜひ観てほしいです。

あぁ、すみません、話が横道にそれてしまいましたが、まずはお礼を言わねばいけませんね。病気と青春時代を絡めて書いていただいた、櫻井さんの前回の手紙を読ませていただきました。受験を控えた前日に統合失調症を発症してしまったのは、高校時代のすごし方にあったのではないか?しかし、今この歳になって振り返ってみると、病気に罹ったのは「不幸でもあり幸せでもある」と締めている。ただでさえ生き辛い今の格差社会の中で、なんとも櫻井さんは「幸福感を得ていらっしゃる」とのこと。

 

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

荒木 浩

 

多くの別れと自身の揺らぎ

「病気になったことが、幸福につながっている」という逆説的なこの一文は、スルーできないところですよね。櫻井さんの辛い10代後半が幸せの50歳につながっているのは、間の30年以上が激動の転換期だったということでしょうか?確かに、私も48歳になったということは、人生の半分以上を東京の地で生活し、仕事に費やしてきたということです。いろんな経験などがあったにも関わらず、それでも人生観や価値観においては10代の呪縛がなかなか解けないでいるのが正直なところです。これは何度かこの手紙のやり取りでも触れたとおりです。それだけに青春期の過ごし方が、その後の自分を大きく左右することは、個人的な考えとして間違いがないと思います。

ただ一方、ある程度自分自身の人生観、価値観、自我が重要な青春期に固まったとしても、私のような対人援助職を続けているとそこが揺るがされてしまうことがあります(いや、この仕事に限らないのかもしれませんが)。得てして、このことは頭を抱え込むような大きな悩みにもなりますが、上手く乗り越えると自己の再構築にも繋がります。言葉でさらっと語れるほどに楽なプロセスではないのですが、客観的に語るとしたら、20代・30代のこの時期に仕事を通じて精神的な辛さに直面することで自分をみつめ直し、そしてそこを乗り越えていくことで他者を知る(理解する)というようなイメージです。この時期は大切だったと今なら思えます。揺るぎは大小さまざまな場面やきっかけで生まれるのですが、私が何よりも辛いものを挙げるとしたら、メンバー(利用者)の死や彼らとの別れに直面したときでしょうか。事故など思いもよらない突然の「不自然な」お別れは本当に辛いものです。

 

連絡が取れず、自宅をお伺いすると食べ物を詰まらせて亡くなっていた方。この方は病院から退院するときに親御さんと話し合いをして一人暮らしを勧めました。私が20代の若造の頃のことです。ご両親も他界されていて、身内とも連絡が取れずひっそりと関係者数名で火葬されました。

 

別の40代の方は母親と二人暮らしでしたが、母親が突然病死され、親類に引き取られるように東北のとある町へと旅立っていきました。何とか東京で生活できないものかとぎりぎりまで思案したものの上手くいきませんでした。10数年後、東日本大震災でかの町は津波に飲み込まれ壊滅しました。

e.t.c…..

生き抜いてこその幸せ感

いったい彼らは幸せだったのか?自分の支援は間違っていなかったのか?彼らのことを思い出すにつけ、いろんな感情で頭の中がかき乱されます。こんな時思い起こすのは、かつて前理事長が就職したメンバーに向かって「生き抜くのよ」と笑いながら送り出していたことです。戦後の高度成長期に生まれた私にはあまりにも過激に聞こえましたが、今となっては彼女の言わんとすることはわかります。

「人が生れるということを選べないように、死ぬということも選べない。だから何としても生きていくしかない」というのが、この仕事に就いて行き当った、現時点での生死に関する私の結論です。「どんなに良い支援をしていても、その方が不本意に死んでしまったり、又は死に近づけさせたりしてはいけない」という支援の根幹の考えは、多くの別れの中で体感し確立したと言えますし、私の頭の片隅には必ずあります。実は冒頭で触れた「気象コントロール」も人為の入り込む余地のない「不自然な」振る舞いだと考えています。人それぞれで良いとは思いますが、「不自然であること」の尺度はもっておいた方が良いのではないかと思います。今の私の危機感は、社会が全体主義に飲み込まれるなかで「不自然であること」に対する私達のアンテナの感度が悪くなっていることなのです。

すみません。話が飛躍しましたね。話を戻して、少なくとも「生死に関する」このような考えは若い頃には希薄だったように思います。決して軽んじていたわけではないのですが、どこかで「人生は太く短く」みたいに考えているところがありました。しかし年月の積み重ねの中で考え方が真逆に変化したようです。桜井さんは辛くも、生き抜いてきたからこそ幸せにつながったのではないかと思います。

 

つらつらと手紙が長くなって申し訳ありません。櫻井さんは、青春期以降いろんな体験と長い時間を経て幸せを感じるまでになったと書かれていましたが、どのようなエピソードの中で変化していったのでしょうか?お話していただけますか?

それにしても「辛い」と「幸せ」というのは、漢字が似ていて紙一重なのが良くわかりますね。

草々

荒木  浩

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

もくじ

 

Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ❾ “思春期を振り返る -櫻井 博からの手紙”

法人本部 2018/02/14

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

思春期を振り返る

偏差値教育におけるゆがみ

前略
荒木 浩 さま

前回、自我と他我に関して触れました。私は自我と他我の考え方をここで話そうと思いはありません。
ただ自分が物心ついた頃、集団にはいるのが怖かったことで、避けて逃げていたことがありました。そのことで社会性みたいなものの形成が遅れ、自分を追い込み、その結果病気になったのかもしれないとの思いがあります。自分の殻に閉じこもり、気の合う人と話し遊び群れるという考え方です。
その当時(1980年代)も大学生が大人の社会性についていけず、悩みひきこもる人もいました。私の場合
「自分が大人の社会になじめない」そのような苦手意識はありました。今考えると「なんでだろう」と、疑問に思います。自分が社会を見ようとしないで、見ないですぎた分、あとにつけはまわってきました。
荒木さんは自我と他我についてエピソードは忘れたと言っていますが、わかった時があったのですね。自分と他人を違うとういう認識が確固としてあったということですね。
その認識も荒木さんが社会になじんでいたからだと思います。

荒木さんに前回、自我と他我について説明していただいたことありがたく思っています。前回は性格と病気に関して私なりの考えを書きましたが、「アイデンティティの確立は今受けしない」と、荒木さんは書かれていて、その根拠がインターネットの出現だと言われると「なるほどなあ」と、納得するも、隔世の感に似たものがあります。

私の高校生活はサッカー部の練習に多くの時間を割いたと思います。進学校な為か部活は盛んではありませんでした。一回目の書簡で荒木さんが触れた、偏差値も私の年代(1970年代後半)も重要視されていました。私が現役で大学を受けた年が共通一次試験元年でした。私はクラブ活動に身を入れるいっぽうで、なにか自分の確立した考えを確立したいと思いました。勉強はできるほうではなかったですが、そのころ読んだ、前回お話しした、坂口安吾の「堕落論」にひかれ、勉強からドロップアウトしました。自宅学習が必要な理数系はほとんど勉強しなかったです。

大学進学があたりまえの高校で、すこしでも偏差値のいい大学を目指す校風には当時馴染めなかったです。
大学浪人時代、「偏差値を上げるのは皆ができない問題に正解することだ。」と思い、そのへんの技術的なことに一生懸命になったことは、ゆがんでいるとおもいました。基本的なものを飛び越した感じはありました。(基本的な知識はおざなりにし、応用的知識の習得訓練)

浪人時代の一年(多分一生で一番勉強した一年)は自分にとっても、精神的にも肉体的にも追い込まれた一年ではなかったかと思います

自然気胸を発症したのもこの一年の冬でした。そして受験を控えた当日、統合失調症にかかりました。
このおいこまれた経験は、自分の性格ではなく、自分がつくりだした世界にも起因するのではないかと思うこともあります。

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

櫻井 博

小さいころ病気の兆候はあったか?

小学生の頃、落ち着かず人にちょっかいをだして、いじめられた経験から発達系の障害もあったのかなと思うこともありましたが、少なくても幻聴、妄想がなかった日々があったのですから、やはり病気になったのは高校生活の過ごし方が大きく影響したのではないかと思います。
やるせない気持ち、不安な気持ちを内包しながら、罹るべくして罹った病気ではなかったかと思うこともあります。

病気になっても幸せ感を得られた

自分の偏差値で、せーいっぱい背伸びして入学した高校で劣等感をもちながら過ごしたことも、自分が歩んできたことには変わりません。今回この往復書簡を書くにあたって思い起こした高校生活も綺麗ごとばかりではなかったかと思います。
ついつい自分の過去は脚色しがちです。
でもこの10代最後の年に病気に罹ったことは、「不幸でもあり幸せでもあるかな」と最近思えるようになりました。そうでなければ、ズーっと偏差値のより高いところを目指し続け、数字でその人の能力をみて、格差社会における、いわゆる上のほうを、偏差値を上げるのと同じように目指す。そんな生き方だとしたら、いまのような幸福感は得られなかったと思うからです。

草々

櫻井 博

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

もくじ

 

Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

家族講座(第2回)のお知らせ

なびぃ 2018/02/03

なびぃでは、毎年ご家族向けの講座を企画しています。

1月にはお金のことについて講座を開催し、ご好評をいただきましたが、今年の第2回は「笑いヨガ」をやります。「笑いヨガ」は誰にでも簡単にできる笑いの健康体操です。

身体に酸素をたっぷり取り込める笑いの体操で、健康効果を実感してみませんか?

日 時  平成30年3月17日(土) 13:30~15:00

場 所  社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会 法人本部ビル2階 (アクセス

講 師  岡井 裕美 氏 (日本笑いヨガ協会)

定 員  30名 定員になり次第、締め切りとさせていただきます

参加費  無料

申込み  お電話にてお申込み下さい

なびぃ:042-571-3103 (火曜日~土曜日 10:00~18:00)

長く楽しく生きるために~天野さんの講演を聴いて~

そのほか 2018/02/01

「長く楽しく生きるために」

SPJで先に行われた勉強会(講師は天野さん:H29年11月11日土曜日)の報告をさせていただきます。

当日は天野さんの講演が1時間強で、そのあと休憩をはさんでグループでの話し合いが行われました。今回勉強会の個人が特定されない範囲で概略と感想を載せたいと思います。

勉強時間は2時間30分ぐらいでした。

参加者は16名で3グループに分かれ、天野さんからは講演のレジュメ、年齢の表、睡眠の資料などが配布されました。

話は「20、30、40代」は「50、60、70代」の気持ちはわからない。なぜ精神障害者は寿命が短いのか、参加者に理由を聞き、どんどんホワイトボードに書いていくことから始まりました。薬、自殺、治療拒否、たばこ、肥満、社会活動の狭さ、運動不足、不規則な生活、生きがいを見いだせなくなる、精神科以外の医療施設で差別を受けるなどがあがりました。

天野さんはデーターを示しながら精神障害者の自殺率は約10%、全体の率よりずっと多い、また精神障害者の人の心筋梗塞、脳梗塞にかかる率は普通の人の2~3倍という話がありました。

年齢の表を使って親族等(父、母、同居人)の年齢の比較をしました。自分が今30才で20年後は50才だが父は76才とかが一目瞭然にわかり、天野さんからこれからは自分だけの年齢だけではなく、親との年齢をセットにして考えてみるべきで、その頃には「介護問題」もでてくる。と、結びました。いつまでもお世話になっていられなく、同居していてもごはんを作れるようなスキルを身につけるべきだともおつしゃってました。

元気に生きるための要素

収入と支出としてどういうものがあるか?「支出」つまり「衣・食・住」を「だれが行なっているか」を把握することが大事であり、食事、運動、社会性についてどんなことが大切かについて話しがありました。休憩時間をはさんでこれをグループに分かれて話しました。

食事に関しては親との関係性、特に社会性のところで天野さんのコメントで、会社でのつながりはつくりやすい(ラク・簡単)しかし退職すると、それは途切れることが多いため、その後のことを考えて、別のつながりも考えたほうが良いとの示唆もありました。趣味は体を動かす趣味であれば運動と社会性の両方を養えると指摘もありました。

 講演を聞いての感想(抜粋)

(A氏):講演を聞いて寿命を伸ばすことは健全な生活をすることで、より深く知る努力をしないといけないと、思いました。親の介護も自分の力でできるか不安です。今日の話のなかで「料理を作る」と大きく考えるのではなく、「何か作って、それに『乗せる、加える、足す』という考え方で良いというのは、目からうろこで、これならできそうだと思えるものでした。日曜日などに暇のある時は是非チャレンジしてみたいと思います。私は料理はやってみると楽しいものだと思います。ここにきているような、働いている精神障害者が元気なことが、全体の精神障害者のレベルがあがることにつながる。というまとめで力をもらえました。

(B氏):料理の話を聞いていてお金と時間をどういう配分で、効率よく使うか。料理を今のうちに覚えておかないと、お金と時間の使い方が悪くなり、結局、レトルトなど時間はかからないが比較的高価な食品を買うことになり、食費がかかる、というパターンにおちいりかねないということがわかった。食べ方や食べ物でもよい効果があるというのは、意外だった。早く食べるのが習慣化している場合は気を付けたい。交友関係もどうにかしないと、社会生活がせばまってくると感じた。今日の話しを聞いて月1で、料理の勉強を母親に教わり、あとの自由時間を部屋の片づけに回したいと思っている。天野さんのお話は、前置きで「シビアな話をする」とおっしゃっていたが、すごく的を射ている話だった。これからの自分自身のために、何を今すべきか、立ち止まって考えるべきだと思った。

 

感想はいいことがたくさん書いてあってここに紹介するのは一部なのが残念です。天野さんには、「年度の変わり目に又講演していただける機会があるといいな」と個人的には思っています。

SPJは機会あるごとに天野前理事長に相談させていただいています。

(SPJ事務局:櫻井 博)

※SPJ(棕櫚亭のS、PEERのP、事務局のJの略 棕櫚亭で働いている人の当事者グループ 現在事務局6名で運営)

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『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ❽ “失われた青春期と喪失感、発病 -荒木 浩からの手紙”

法人本部 2018/01/31

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

 

前略
櫻井 博 さま

1月も下旬になり、かなり寒い日が続きます。いかがお過ごしでしょうか。

気持ちの良い秋が短く一気に冬に突入したためか、この時期になっても体が寒さに慣れていきません。原因は異常気候のせいでしょうか? それとも単に私の老化のせいでしょうか? 老化というのは、冗談も交じっていますが、とは言え私も2年後には50歳になります。見た目は50歳を大幅に超えていますが。

いわば人生の折り返し地点を大きく超えてしまって、少し物ごとへの考え方も変わってきたなぁとも感じる今日この頃です。

例えばこの書簡も、全部とは言わないまでも自分の心の内を櫻井さんに書いていますが、数年前までは全くなかった発想です。勿論、これまで私なりに仕事を一生懸命やってきたわけで、決してコミュニケーションに対して手を抜いてきたわけではありません。ただ、どうしてこの書簡を始めたのかというと、何というか仕事への心の向け方というよりも、同世代の今の理事長に「社会の中で、年齢なりの立ち振る舞いができているか?」と言われた時の衝撃が発端になっています。なかなかエキサイティングな職場ですよね、時々私は凹んでいますけど。ともかく、社会の中でアラフィフの自分が行動や発言していくということを考えたとき、経験という資産しかないことに愕然としました。悩みましたが思い直して、当事者スタッフの櫻井さんにこの経験の一部をきちんと開示して、次世代に残すべき別の資産を作りたいと思ったのです。

前置きが長くなってすみません。前回の手紙から少し間が延びてしまったため、お手紙を読み返しています。そして思い出し思い出しながら返信を書かせていただきます。

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

荒木 浩

発病と自我について櫻井さんが思うこと

統合失調症になった原因について前回の手紙で櫻井さんは、青春期に「自我」が確立できなかったからだと書かれています。なかなか哲学的な話になってきて、櫻井さんの話についていけるか心配になってきました。「自我」とは学生時代を思い出すような、ワードですね。この手紙はできるだけ背伸びをしないように書きたいとは思っていますが、どうなりますやら。
「自我」という言葉を深掘りすることが目的ではないのですが、解釈でわかれる言葉なので私なりに一応定義づけしておきます。言うならば「『自我』とは、『鏡に映る内面(心)』の『自分からの見え方』」のことだと理解していますが、よろしいでしょうか。

丸めた言い方をすると「自分ってこんな心の持ち主なんだと思うこと」なのでしょうか。

櫻井さんは「ゆるぎない強い自我を青春期に確立できなかった」から病気になってしまったと書かれていますが、「櫻井博ってこんな心の持ち主なのだ」という自我を青春期につくれなかったことが病因であるとおっしゃりたいのですね。

失われた青春期をとりもどす

青春期に自我の確立ができなかったことが統合失調症の原因となるのかどうなのか、正直に言うと私の知識ではわかりません。しかし、櫻井さんの文面から透けて見える、青春期の強い喪失感は理解できるような気がします。間違っていますか?

大切な時期を病院で過ごしてしまったことが櫻井さんにとってどれほど辛い体験でその後の喪失感につながっているかは、就労訓練を行なっているピアスのメンバーさんの支援でもよく感じています。ピアスメンバーの多くも櫻井さんと同じように青春期に発病していることが多いのですが、就職した経験がある方、そうでない方いろいろな方がいらっしゃいます。

そういう意味では決して皆さんを一概には言えないのですが、「ピアスの訓練は辛い」という思いだけで通っている人ばかりではないという実感があります。

勿論、ピアスは就職のための訓練というだけあって、肉体的にも精神的にも負担は大きいと思っています。それでは40名の方皆さんが毎日ゼイゼイいいながら訓練しているかというと、あながちそういうことでもありません。お昼の時間、休憩時間やアフターファイブを生き生き楽しんでいる場面をお見受けすることが多々あります。その彼らの姿はいわば青春の穴埋めをしているがごとくです。他者とのふれ合いの中で自身を取り戻していくということは、ピアスというコミュニティーの強みだとつくづく思うことがあります。

このことがどういうことかと自分なりに解釈したときに、自分の存在というものは他者の存在でようやく浮き彫りにされるのだということです。

少し私事を書かせていただくと、高校時代に「自他の区別」をかなり強烈なインパクトで受けいれた記憶があります。その時強い孤独感を感じたものです。上手く書けないのですが、このような仕事をしている原点はその「孤独感」にあると思っています。これは確信をもって言えることです。ただ残念ながら具体的なエピソードは思い出せませんが、かなり独りよがりな気づきがその時期にあったことは覚えています。その頃から心理的に殻にこもっていったことを手紙を書きながら思い出しました。「自分」と「他人」は別という、言葉以上の強い観念に縛られているという気持ちが今はないとはいえません。
まぁそれはさておき、一方でこのようにも感じるのです。

現代社会と自我の確立

今青春期にあるどれだけの若い人達が「ゆるぎない自我」を確立する必要があるのか?という疑問もあります。

例えばそれは、リアル(現実)と、インターネットを代表とするバーチャル(仮想現実)の世界を私達は行き来しながら生活していることが当たり前になっている昨今です。本名と匿名を使い分けながら、どちらにいようと不自由ない世の中になってきているような気がします。自分が簡単に他人に成り代わることができるのです。むしろそこを闊達にうまく渡り歩いていることがスマートで賢い人という評価を受ける時代だと思うのです。「自我の確立」なんて言葉は、今や過去の遺産となりつつあるのでしょうか。

もしかして、時代時代によって統合失調症の発症原因は違うのかなぁとも考えたりもしました。

私が苦手な哲学的な話を少し避けていただきながら櫻井さんの発症前後、つまり高校生ごろのことをもう少し詳しくお聞きすることができますか? すみません、リクエストが多くて。

草々

荒木  浩

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

もくじ

 

Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

【全事業所、開所します】各事業所利用者の皆様

そのほか 2018/01/23

おはようございます。利用者・職員の皆さま

本日(23日)多摩棕櫚亭協会各事業所全て、通常の開所となります。

ピアス・棕櫚亭Ⅰ 9時開所 / オープナー・なびぃ 10時開所です。

雪は止んでいますが、依然足元が悪いままです。くれぐれも注意の上お越し下さい。

交通機関の乱れによる等の遅刻に対しては、慌てずにご連絡いただければ大丈夫です。

くれぐれも怪我のない様にお越し下さい。

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会

法人本部

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1月22日~23日の雪による事業所の開所状況について

そのほか 2018/01/22

1月22日~23日にかけて東京・多摩地区での積雪が予想されています。

交通機関の乱れも予測されますので、22日利用者の方は14時で帰宅につきます。

明日は通常開所を予定していますが、積雪交通機関の乱れにより閉所ということもあります。

閉所の場合は、7時前後にこのホームページにて告知いたします。

開所の場合も、積雪の影響で足元が悪くなっていることも想定されますので、遅刻等もやむを得ません。怪我のない様にお越し下さい。

(参考ページ)

国立市の天気 → yahoo!天気

交通情報   → yahoo!運行状況

多摩棕櫚亭協会 法人本部

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『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』 Part ❼ “対談編”

法人本部 2018/01/17

往復書簡 01 荒木浩と櫻井博

新年あけましておめでとうございます

ホームページをご覧いただいている皆様、遅まきながら、新年あけましておめでとうございます。

旧年中は『往復書簡』をお読みいただき、ありがとうございました。
読んでくださる方からは「楽しみにしています」とお声掛けいただき嬉しく感じています。
さて、紙面も思いの他すすみましたので、ここで一度対談をしたいと考えました。
案外とこの文章書きという作業は私(荒木)にとって負担で、少し息抜きがしたかったというのが本音で、加えていうならば、公開後読み返した時に少し内容の補足が必要かもしれないと思ったからです。
裏話をすると、公開の少し前から実際の手紙に近いやり取りを始めていて、わずかばかりのストックがあったのですが、いざ公開する段になって「やっぱりこのように書きたい」と手直しをしてしまう。そうするとそれを受けた櫻井さんも話の流れから書き直しせざるを得ないという悪循環を、私がまねいているという始末。桜井さんごめんなさい。結局、タイムラグが少ないほぼリアルタイムな手紙のやり取りをしているのが実態です。もっと言ってしまえば、お互いできるだけ職場で時間を作って書こうと思っているのですが、持ち帰って夜遅くまで自宅のパソコンに向かっています。私はともかくも、櫻井さんにとっては負担になっているような気がします。「まぁ、なんと時間外まで使って熱心な」と褒めてくれという気はまったく無いのですが、気持ちを入れて書いているという気持ちを吐露させてください(笑)
ということで、今回は指向を変えて、以下が対談の模様になります。

荒木 浩

対談編

荒木: あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

櫻井: こちらこそよろしくお願いします。

荒木: このページで使っている写真どうですか? 秋に近くの谷保天満宮でとった写真なのですが、天気もよく、いい写真だと思いません。

櫻井: いいですよね。ここは菅原道真公を祭る学問の神様がいることで有名ですよね。正月は出店も並びにぎやかになります。高台があるのですが、ここから見える富士山は本当に綺麗ですよ。

荒木: たくさんの鶏が解き放たれていてのどかなところですしね。

櫻井: のどかなところだけに、かっこいい古いポストも残っていますね。このポスト写真を撮ってくれたアーガイルデザインの宮良さんが探してくれました。ホームページの多くの写真が彼の手によるものですが、いいものばかりです。

 

櫻井博 と 荒木浩

荒木浩 と 櫻井博

昨年を振り返って

荒木: さてそろそろ本題に入りますか(笑) この書簡が始まった昨年(平成29年)を振り返って、櫻井さんにとってどのような年でしたか? 私にとっては、棕櫚亭の30周年記念行事を喜んでくれたメンバーさんの笑顔を忘れることができません。そしてこの組織はメンバーに支えられているのだなぁという実感がありました。また天野さんと藤間さんという組織の創設者が退職され、ついに継承がまわってきたかという1年でしたね。周囲に聞いてみると、社会福祉法人、なかでも精神障がい者の支援を中心に行なってきた法人にとって、立ち上げた団塊世代の退職で組織継承の事は切実な課題になっているらしくどこも苦戦しているとのこと。そういう意味では、うちの法人は、小林さん(理事長)、高橋さん(常務理事)、山地さん(オープナー施設長)、荒木のアラフィフ4人で探り探り、苦戦した1年だったと思います。理事会の審議などで自分の力のなさに肩を落とし、メンバーの就職にヤキモキしたり、逆に喜んだり、ある意味エキサイティングで背伸びした一年だったかもしれません。よく自分に言い聞かせているのですが、「個人的には、背伸びって必要な時期がある」と思うんです。背伸びすることで足元が不安定にはなるけれども、そうしないと強い筋肉が足につかないというか。メタボ対策というか(笑)

櫻井: なるほど(笑) そうですね、私には挑戦の年でした。2年前から介護従事者の勉強を始め、年末から年始にかけては、日曜日に学校に行き、昨年4月から週5日のフルタイムに変わり6月からは常勤採用になりました。介護の勉強は終わらせ、今は棕櫚亭の仕事に専念しています。
私も30周年の記念行事も忘れられません。組織継承で新しい経営陣とともに退職まで頑張ろうと思った瞬間がありました。本当ですよ(笑)平成29年という年は最後に病院を退院した平成19年から数えてちょうど10年たちますが、棕櫚亭にもっと早く出会えれば人生もかわったかも知れないと思ったりもします。私がメンバーとして棕櫚亭にいたのをかぞえても14年間ぐらいです。30周年を迎えた棕櫚亭は、さらに16年間も積み上げているので、すごいことだと思います。
ピアスタッフつまり当事者スタッフならではの視点で業務に関わればと思いますが、実際仕事にはいると、まわりのスタッフと足並みをそろえることも重要なことに気が付かせられます。
またこの往復書簡がはじまったことも印象に残っています。ベテラン職員の荒木さんとすこしづつつみあげてきたものを「手紙というかたちで」と提案された小林理事長にも感謝です。

自己開示について

荒木: ありがとうございます。櫻井さんの前向きな行動力にはいつも感心させられます。当事者であろうとなかろうと、特にこの仕事を専門職として選んでいる方にとって自己研鑽していくことは大切だと思います。もちろん自己研鑽というのは、技術的なことなども含みますが、個人的には人間としての幅を広げていくことこそ大事なことだと思います。「いったい幅を広げるということってどういう意味ですか?」と、いつも叱りつけている職員に反問されそうですが、そこは各自で考えてくださいとしか言いようがありませんけど(笑)もちろん最低限必要な知識・技術・倫理観などはあると思いますが、それを超えた部分は各々で大いに伸ばせばよいと思います。どうしても知識やテクニカル的なことに意識が向きがちなのは仕方ないことですが、対人援助の仕事はオンリーワンのメンバー支援をしていくのだから、四角四面の知識や技術では現実問題に対応できません。そこを個人の経験や想像力で補わなければならないと思うのです。つまり私の言う「人間としての幅」というのは、想像力というかその人の人生にいかに思いをはせることができる力があるかということなんです。この力ってある時期になればつくものではなく、継続的に研鑽しなければいけないものだと思っています。まぁこれはあくまでも私の考えなのですが。そもそも同質化された職員集団は個人的にはちょっと気持ち悪いので、いろいろな個性があって良いと思います。

そういう意味では、今回この記事、つまりあまり話してこなかった自分個人の過去や考えの一部をさらすことでいろんな評価をうけることは覚悟してもいます。櫻井さんを巻き込んで申し訳ないのですけれどね。それにしても、いくら文章を書くのが上手い桜井さんでも、発症時の過去を思い出したり、自己開示したりという作業は負担だったのではないでしょうか? 先日たまたま、自己開示に関する質問をメンバーさんにアンケートという形でお聞きしたところ「負担である」「話しても良い」の半々の結果が出ました。桜井さんには少しお聞きしたいのですが?

櫻井: そうですね。私にとって、自分の思いや過去を語る、自分のありのままを語るこの書簡での自己開示度は高いと思います。「当事者が自己開示するとは、信頼を置ける関係になってようやく徐々に自分のことを語ること」と、精神保健福祉士取得のための教科書にも書かれています。一般的なイメージでは健常者が酒を酌み交わし、本音で語ることに似ているかもしれません。
一般企業では、例えばコンビニの店長、デパートの店長、商社マン、などはたくさん商品を売り、高い利益をどのようにあげるかということが仕事の目的ですが、福祉の仕事はその方の本音を聞きながら、一緒に考えていくかが、利益をあげるのと同じように大切なことだと思います。
気を付けなければいけないのは、商品にはプライバシーはありませんが、福祉の仕事は自己開示(プライバシー)によって生活の向上を目指すため、その取扱いに職員は注意を払わなければならないという事です。それは法律上などと言うまでもなく、この職に就く者にとって絶対に必要な倫理観です。
今回の往復書簡では、私の自己開示は荒木さんの魔法の言葉(笑)でひきだされていますが、ある程度荒木さんも自己開示されているので、こちらも誠意をみせる意味でも自己開示しています。これが大事で、他人の自己開示には、ある程度自分の自己開示も必要となる場合が多いということです。多いと書いたのは、支援者とメンバーの関係では、メンバーに比べ支援者が自分のことを開示することは少ないからです。しかし支援者はメンバーが自己開示されたことに誠実に反応しなければなりません。
そして当事者が自己開示する意味はもう一つあるのではないかとも考えています。自分の過去、プライベートの部分を会話という形で外にだすことによって、自分を第三者的に俯瞰してみることができるということです。俯瞰してみるからこそ、自己開示すると恥ずかしいという感情がうまれてくることもあるのではないかと思います。だから支援者は過去の生活暦を語るメンバーにたいしては慎重な態度と寄り添う姿勢が必要です。自己開示を受け入れてもらった感をメンバーが感じ取れれば第一関門は通過したといえると思います。

「人生が終わった」と感じた瞬間

荒木: なるほど、櫻井さんは、自己開示しそれを話題にすることで、自分を客観視するという事をしているのですね。そしてその情報を生活の中で生かしていくという姿勢は、私たち職員にも必要な態度なのだと思います。ところで櫻井さんは医療保護入院になった時のことを「本当に人生がここで終わる」と話されていますが、そのあたりのことを詳しく話していただけますか?どういう点で人生が終わると考えたのでしょうか?どうしてこの質問にこだわっているかというと、私達職員は、「人生が終わる」といかないまでも精神的に多くの苦悶を抱えた、あるいは抱えている人達と日常接しているということをきちんと意識することが必要だと思うので聞きたいからですけれども。

櫻井: 医療にかかっているのに、人生が終わるとは不思議に思われるかもしれませんね。医療は人の命を助けると思うのが普通だと思うのですが、医療保護入院時の精神状態のなかで『精神病院では自分の命が失われる』という被害妄想が働き、『自分の人生の終着点が精神病院になってしまった』という誤った考えで入院したからです。もちろん今ではそんなことは思っていませんが。閉鎖的な精神病院の世界では、この考えは直るどころか、いっそう加速され、自分の命をとるため病院に暗殺者を送り込んできた。その思考から抜け出して退院をして具合が悪くなり、また病院に戻るの繰り返しが何十年も行なわれていました。被害妄想は閉鎖的空間では助長されるというのが、私の実感です。
医療が人を助ける場所だと信じることが入院の時はなかなか信じられませんでした。それが『本当に人生が終わる』という発言に繋がっています。実際最近聞いた話では、精神病院での身体拘束が以前に比べ増えているという話をききます。精神科特例など問題があるといわれる精神病院では、地域生活をしている以上に苦しんでいるのではないかと思うこともあります。
ところで逆にお聞きしたいのですが、職員の方は『人生が終わる』なんて考えたことがありますか?

荒木: 私は少し書いた通り東京に上京した時はかなりピンチでしたが、それでも『人生が終わった』とまでは思わなかったですね。決して楽観的ではなかったのですが、それでもわずかながら選択肢があったように思います。例えば最悪、私の場合九州に帰ることもできたのではないでしょうか。他の職員の方はどうでしょうか?聞いてみたい気もします。
振り返ると私の入職当時も精神科に対する偏見はあったと思いますし、社会も昔に比べればよくなりましたが、それでもというところが今もあります。いまだに内科を受診すれば周囲は「病気を心配する」のに、精神科を受診すれば「人生を心配する」みたいなところがないとは言えません。「人生が終わる」と感じる方が私たちの周りにいるという思いで、この仕事の重みを感じなければならないと改めて思わされましたね。

あぁ、ただ、いま話をしながら思い出したのは「人生が終わったとは少し違うのですが、「生活がやばい」と思ったことは確かにありました。22歳の入職後2年で子どもを授かったのですが、勿論当時学生だった奥様は働けず収入がなく、手取り14万円の給与で家族3人暮らしていかなければならなかった時は「オワタ」(笑)と思いましたね。当時は私もタバコを吸っていましたが、喫煙場所でタバコを一緒にくよらせていたメンバーの方から「市に(生活保護を)申請してみたら」といわれました。さすがにできませんでしたけど。

これは棕櫚亭の給与がどうのこうのというのではなく、この精神保健福祉業界の地位や補助金が低かったということなんですよ。誤解のないように。そういう意味では職員が安心して働けるように基盤作りをしていくことも私の今の仕事であるという、最初の話につながってくるのです。ということで、すこし話が長くなりましたが、桜井さんありがとうございました。それでは後半戦に突入したいと思います。

これまで桜井さんの話の中に出てきた、アイデンティティーのことや、今そしてこれから先の櫻井さんの仕事への思い・展望などに水を向けすすめていきたいと思っています。桜井さんお手柔らかに、よろしくお願いしますね。

2018年1月吉日
多摩棕櫚亭協会 本部にて

「手紙」を交わすふたり

櫻井 博

1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)

大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。

・2013年   精神保健福祉士資格取得
・2013年5月  週3日の非常勤
・2017年9月  常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)

荒木 浩

1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長

福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。

・2000年   精神保健福祉士資格取得

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Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited

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