法人本部 主任 北村 宥志
6月の法人報告会で、講演(「3.11福島の実情を知る~報道されない被災地の現状~」)していただいた高瀬芳子さん、松本喜一さんからお話しをいただき、2月10日-11日に棕櫚亭職員15名で福島被災地を巡るツアーに参加してきました。
現地では高瀬さんのお知り合いの三間智之さんにも運転していただき、双葉町、大熊町、国道6号、中間貯蔵庫、福島第一原発、双葉病院他いろんな場所に案内していただきました。案内だけでなく旅館でもPCを使って講義していただき、限られた時間の中でやれること全てやっていただいた感じです。楽しく厳しく現地のことを伝える3人にユーモアと力強さを感じました。本当にありがとうございました。
参加にあたって
東日本大震災(2011年3月11日)の被災地に行くチャンスは今まで何回もありました。被災地のことを知りたいのか、それとも他人事でそんなに関心はないのか。関心がある人でありたいだけなのか。もっと言えば関心がある人と思われたいだけなのか。面倒なことをごちゃごちゃ考えているうちに東日本大震災から8年が過ぎました。結果無関心と言われても仕方のない日々を過ごしています。ボランティアはもちろん、家から出ない自分は旅行をして被災地にお金を落とすということもしません。無精者なので玉石混交の情報から取捨選択することも面倒でやらず、本を1冊読んだのみ。
震災直後から毎週のように現地に行っていた歳の離れた友人がいます。彼に今回の福島ツアーの話をすれば、さんざん誘ってやったのに何をいまさらと言われます。その彼とかなり前に会ったときに、「○○は知識も経験も技術もあるんだろうけどリアリティがないんだよな。それっぽいこと言ってないで現地で瓦礫の1個でも運んで来いよって思うよ。今度顔の形変えてやろうかな…」と、最後の一言に隠しきれない過去を滲み出しながら言っていました。あれこれひとり鬱々と参加について考えていたときに突然その会話を思い出し、自分に言われた言葉のような気がしました。彼に顔の形を変えられないためには現地に行って無知と無関心を晒す(さらす)しかないんじゃないか、被災地に関する自分のリアルは無知と無関心なんじゃないか、というか行きたいか行きたくないかはどっちでもいいんじゃないかと思い参加を決めました。
本の力を借りて
ちょっと旅行に行ったことで8年を埋めることができるわけもなく、この場で急に一日も早い復興を願ってみたり福島を知ったふうに語り出すことはなかなか罪深いことのように思います。だからといって語ることができないという言葉は、これだけの震災なので、それは行かずとも想像すれば出てくる言葉です。
ここで衒う(てらう)ことなく今回のツアーの報告をするには唯一読んだ一冊の本の力を借りるしかないと思いました。目にした風景にぴったりの言葉、表現が書いてあり、考えるきっかけになる言葉がたくさん書いてあることを思い出しました。よくよく考えれば震災と言葉をテーマにしている本です。著者から言わせれば、被災地を見て思い出すのではなく読んだ時点でまだ見ぬ被災地の風景を思い起こしてくれということでしょう。読んだ本は、辺見庸さんの「瓦礫の中から言葉を」という本です。
著者自身も言葉を探し続けているからなのか、本では先人たちの言葉を引用しながら表現や言葉ということについて語られています。原民喜、折口信夫、石原吉郎他、たくさんの人の言葉が引用されています。読書家ではない自分は全て未読でした。
浪江町
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム
スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ
パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ
自身の広島での被爆体験(1945年)を基にした原民喜の「夏の花」という小説に出てくる詩の一部です。実際はもう少し長い詩です。
海岸からほど近い距離にあり津波の被害を受けた浪江町の小学校周辺に行きました。その小学校といくつかの廃屋が点在しているだけの広大なその地域に足を踏み入れ周りを見渡すと、テレビの画面やヘクタールという単位ではなかなか伝わらない実際の広さというものを感じました。この範囲が根こそぎ津波にやられたのかと改めて被害の甚大さに驚きます。「パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ」という表現が、目の前の風景とあまりにも合いすぎていました。1947年に発表された小説ですが、この風景を描いたんじゃないかと思うほどです。もちろん震災直後は瓦礫の山で、8年後に自分が目にした今の風景とはまるで違うものだったはずです。8年前は「ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム」の方が風景と合っていたのかもしれません。
赤んぼのしがい。
意味のない焼けがら-。
つまらなかった一生を
思ひもすまい 脳味噌
憎い(憎い) きらびやかさも、
繊細の もつないなさも、
あゝ愉快と 言つてのけようか。
一擧(一挙)になくなつちまつた。
折口信夫の「砂けぶり」という詩の中に出てくる詩の一部です。こちらは本に引用されていたものを読んだだけで、まだ実際の作品を読んでいないので書くのは躊躇われ(ためらわれ)ますが、「一擧になくなつちまつた」というのはやはり目の前の浪江町の風景を表していました。震災以前の風景を知りませんが、広大な土地に小学校といくつかの建物だけが残っているということが、この地域に何か大変なことが起きたことを想像させます。
詩は関東大震災(1923年)の焼け跡を歩いた経験をもとに描かれたものだそうです。つまらなかった一生とは何事だ、どこが愉快なんだと今ではSNSでこれでもかと叩かれるかもしれません。賛成反対で盛り上がるのかもしれません。誰からも文句の出ないように選びに選んで発する前向きな今の言葉よりも、みんなに叩かれるであろう数十年前の言葉の方が東日本大震災を正確に伝えてくれているように思います。
(福島第一原発近くのヒラメ養殖場跡。大きなこの建物の天井まで津波がきたそうです。)
車の中で
人の生はある日突然、手や足といった部位となって浜辺や港に打ち上げられる。それが人の善悪や因果など関係なく誰にでも起き得る
著者が書いていたこの風景を何度も想像したことがあります。現地を回ってくれた車の中から見えるのは、風に舞う雪とうっすらと雪が積もった山や木々で、普段なかなか見ることのない田舎の美しい風景でした。そんな景色を眺めていると、ときに「カラスは光るものが好きらしく、死体の目玉だけ持って行くから目のない死体がたくさんあった」「どこの村も数十人の犠牲者が出ていて、多いところは数百人亡くなっている」といった話が耳に飛び込んできます。初めて訪れたこの土地も震災前どのような姿だったかはわかりませんが、目の前の風景(日常)に突然入り込んできた犠牲者(非日常)の話に、震災ってこういうことなのかも、人の死にはこういうことが起きるんだ思い、この言葉を思い出しました。一見同居し得なさそうな目からの情報と耳からの情報が突然同居したことは、震災に対するリアリティを感じるものでした。貧弱な想像力の射程距離が少しだけ伸びたような気がしました。
大熊町
いまは、人間の声はどこへもとどかない時代です。自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりきこえる時代です。
本に引用されていた、石原吉郎が言ったこの1972年の言葉を知ったとき、なんで今のことを言っているんだろうと本当に不思議に思いました。届く前に拡散し、腐食という過程すら待ちきれず無限に拡散していくと言っています。タイムトラベルでもしたのかと思いました。
帰還困難区域の大熊町に入り、今回のツアーをコーディネートしてくれた方の実家周辺を案内していただきました。民家と商店街が立ち並ぶ町には誰一人いません。ガラスは割られ家の中は泥棒と猪に荒らすだけ荒らされ滅茶苦茶になっていました。20xx年、忽然(こつぜん)と姿を消した全住民……なんていうSF映画の中にでも迷い込んだような、静まり返った町でした。大熊町を見て思い出した言葉というよりは、なにかぴったりの表現があった気がして本の中を探しました。セットのような町、廃墟の町、忘れ去られた町、置き去りにされた町…いろんな言い方ができますが、町のSF感に石原吉郎のタイムトラベルも手伝い、目にした大熊町にぴったりだと思いました。時が止まったような大熊町とものすごい量とスピードで過ぎていく自分の日常を考えると、自分自身も日々の連続性の中で置き去りにしているものがたくさんあるような気になりました。今思えば国道6号を走っているときの、時の止まった被災地の風景と通り過ぎていく自分たちの車は何か示唆的(しさてき)だったように思えてきます。
(破壊された建物は内と外の境界が無くなっていました。パソコンや書類等が当時のまま残っていました。)
行く前には読み流していたもの
3.11が残忍だったのではなく、現代社会の残忍性が3.11によって証明された
正確な引用ではありませんが、著者の言葉です。これも現地で思い出したというよりは、帰ってからぱらぱらとページをめくっていたら目に飛び込んできました。出来事を出来事で留まらせず、さらに視野を広げるための方程式のように思いました。残忍性という言葉はいろいろな言葉に置き換えることが出来るかもしれません。また、3.11を相模原に、現代社会を自分にといった風に置き換えることもできるかもしれません。ストレートに置き換えるとなかなかつらいものがありますが、主体や言葉を置き換えてみることは、思考を広げたり内省するときのひとつのヒントになると思いました。
この言葉に注目したことと現地に行ったことと何か関係があるのかはわかりませんが、以前読んだときにはなぜか読み流していた箇所でした。それよりも、この言葉の前に書いてあった、「膨大と無は似ていてどちらも虚無と不安の発生源で、膨大と無が同居するのが現代社会の残忍性の特徴だ」という箇所に注目をしていました。著者は福島原発から放出された放射性セシウム137が、広島に投下された原子爆弾の168個分という記事にこだわっています。この途方もない数字はノッペラボウで無意識で透明な残忍性を感じるからだそうです。死者数、行方不明者数、放射線量という膨大な数値や耳なれない単位が飛び交います。計量的思考は具体的なようでいて実は何も表してはおらず、定型文のような言葉や「復興」「団結」の連呼は個の魂を救わずひとりひとりの死や生活を消し去ることにつながるのではないでしょうか。
(先程の破壊されたヒラメ養殖場跡から見た海は、今まで見てきた海とは別物に感じました。)
体験
体験は主体的に受け止め内的に問い直した時体験となる。
最後の最後まで人の言葉を借りながら書きたいと思います。これもまた石原吉郎の言葉です。体験の保留と言っています。これは本に出てきたものではなく、石原吉郎の他の文章に出てきました。ともすればこういった報告をするときの便利な言葉として悪用してしまいそうです。この言葉の通りでなくてはならないのだとしたら、そもそも自分に体験と呼べるものがあるのか悩んでしまいます。
行くことで、無知や無関心、大切な本もそんなに深くは読めていなかった浅い自分も知りました。知れたから行ってよかったというと優等生過ぎて居心地が悪くなるので言いません。たとえわざとらしい憂い顔が出てしまっていたとしても、やはり脳内だけでなく身体も現地に持って行くことの大切さを改めて痛感しました。当たり前のことかもしれませんが、5mと言われるよりこの建物の天井までと言われることのリアリティがありました。画像で見るより実際のバリケードの方が不気味なものでした。誰もいない町で遭遇した猪は50m以上先にいても恐怖を感じました。
言葉や写真他、得た情報からどこまで想像力を働かすことができるかが重要だと思い直すツアーとなりました。また自分の想像が全く現地には届いていなかったことも、その距離は絶望的に離れていることもよくわかりました。結局は他人事で自分の想像は自分にとって都合のいいもの、折り合いの付くものでしかないのかもしれません。また自分の日常にとって不都合なものは排除しながら生きているのかもしれません。
現代社会に生きている以上、現代社会と無関係ではいられません。アフォリズムと言っていいのかわかりませんが、折り合いなんてつかせず、不都合なものを直視するためにも、「3.11が残忍だったのではなく、現代社会の残忍性が3.11によって証明された」という言葉にはどこまでも拘って(こだわって)いこうと思います。繰り返しになりますが、どこか無関係な気がしてしまっている出来事を、自分の問題として考え直すためのきっかけになる言葉であり、またふとした瞬間、人のせいにしている自分を省みることができる言葉に感じます。情報の異常なまでの量とスピードは、考える時間を奪い、出来事の本質を探ることを許さないほどです。そんな上書きと使い捨てのような現代社会を、実は自分も作り出している1人ということを意識しながら、さらには上書きと使い捨てを求めてしまっているかもしれないことを自問しながら、なんとかスピードに抗いつつ社会と関わり、出来事の本質を考えたいと思います。そして、社会で起こった出来事≒自分の出来事、何かやらかした人≒自分、を思考の出発点にしていけたらと思います。考える力の足りない自分は、しどろもどろになり取り乱し矛盾を孕む(はらむ)ことになる予感満載ですが…
最後に
読んだ本の中に出てきた人の言葉を借りながら、被災地に行って感じたことを書きました。借りた結果、言葉が自分の身の丈に合っておらず着心地の悪さばかりが残りました。手に余る感がものすごいです。でもこの本を読んでいたおかげで福島ツアーがより意味深いものとなり、今後、再読含め(これを書くにあたりすでに再読が始まっていますが)あらたな情報を得たとき、現地に足を運んだことが少しは深くものを考えるきっかけになるのではないかと思います。本には他にも堀田善衛、ブレヒト、ジョージ・オーウェル、川端康成、石川淳、コヘレトの言葉、宮澤賢治…とたくさん出てきます。どの本も東日本大震災よりはるか昔に書かれたものばかりですが、現代に読みかえながら東日本大震災を語るこの本はとても興味深く、ものの見方や考え方のヒントがたくさんある本です。震災から原民喜「夏の花」へと一気に話を広げ、時代も内容も違う出来事を関連付けて考えています。震災に限ったことではなく、その出来事を考えるうえで広さと深さが増すやり方だと思いました。震災という枠を飛び越えとても大切なことが書いてある本だと思います。ちなみに著者曰く、この本のテーマは「言葉と言葉の間に屍(しかばね)がある」と「人間存在というものの根源的な無責任さ」だそうです。