櫻井さんの主張に対するささやかな反論
櫻井さんへの深い感謝と彼との対峙
前略
櫻井 博 さま
櫻井さんの気持ちを振り絞るように書いてくれた手紙には、心揺り動かされるものがありました。情景や心情が目の前に浮かびます。これほどリアルに、そして誠実に答えてくれたことに感謝します。私自身、支援者としての医療保護入院などに何度も立ち会った経験がありますが、本人はもちろん、取り巻く家族などの複雑に交錯した思いにいつも困惑し、何が正解なのかと悩んでしまいます。
ところで、櫻井さんは今も「人生は終わった」と思っていますか。確かに当時の櫻井さんの入院の辛さはわかりましたが、正直言うと「その程度」に対して忠実に思いを馳せることは、経験を積んだ今をもってしてもかなり厳しいです。しかしこの書簡を通じてそのあたりの繊細な部分に触れさせていただければありがたいと思います。そしてここで筆を終えてしまうことは「健常者職員」のありようを探る始点につながっていかないので、あえてすすめさせて頂きます。
そして、これから櫻井さんが書かれた発症の原因について、少し私見を書きたいと思います。
私はいわゆる団塊ジュニアと呼ばれた世代で、櫻井さんとは10歳ほどの年齢差があります。
従って、これから書くことは時代を考慮しないという前提で櫻井さんにお読みいただければと思います。
猛烈な勉強からは、精神病の入り口には立たなかった私
当事者である櫻井さんは「病気の原因」について、頭を酷使した結果であると書かれていますが、私は精神科医ではないのでそこに関しては答えることはできません。
ただ「頭を酷使した⇒(結果)病気になった」という構図には賛成しかねるという意見を持っています。「頭を酷使して」の解釈がもしかしたら違うのかもしれませんが、手紙を読む限りは「勉強して」と同義のような気がしましたのでそこをスタートとしました。勿論、誘因にならないと思っているのではなく、主因にはならないのではないかということです。
まぁ、そう思うのには私事を少し綴らなければいけないのですが、私自身が世代的にもいわゆる偏差値戦争に巻き込まれてきた苦い経験があります。「推薦入学」などもわずかにありましたが、学力一発!が幅をきかせていた時代だと思います。AO入試なんて、子供を持った今でも実はよく理解できていません。
「偏差値」これが私にとっては大きな意味を持つ数字でした。
特に父親の学歴コンプレックスはひどく、週に1時間しかテレビを見せてもらえない。結果、朝教室で友達が無邪気に「昨日のテレビ面白かったよね」などと話す会話に入っていくのが辛かった日々の思い出は、今も強烈にあります。案外とこういう思いは強くながく心に残るものなのです。ただ、立ち振る舞いが上手かったのかちょっと癖のあるこんな私がいじめ等にあわなかったのが、今思えば不思議なことです。特に中学生時代の学習は濃密でした。体育会系の部活動もしていたので、帰って1時間ほど寝て、朝の3時ぐらいまで机に向かう生活をしていました。そうして県内でも有数の進学校に入学しましたが、所詮はお山の大将で、偏差値お化けが沢山いることも思いしらされ、ショックを受けました。努力だけじゃ越えられない何かがあるのだと、子どもながらに思ったものです。
いえ別にここで自慢話をしたいわけではなく、櫻井さんに言いたいのは、単純に「私は精神病院にいかなかった」ということです。
精神病の入り口に立った者、すり抜けた者
それでは、自分が健全な子どもだったかというと、振り返ると後悔で過去を消してしまいたい思いに駆られることも数え切れないほどあります。今考えると「すさんでいたなぁ」と思うことも多々あります。このあたりのことは追々書いていくことになるかもしれません。勿論、個人の精神的負荷というものは主観的なものですから、櫻井さんと私のどちらが、大変な思いを重ねたかは比べることはできません。まぁ客観的には櫻井さんの方が大変な思いをしたのだと思いますが。
「ふりむくな ふりむくな うしろには夢がない」と劇作家の寺山修司はある詩の中でこのように書いています。私はこのフレーズが大好きです。特に若いときには何度もこの言葉に助けられました。確かにそうかもしれませんが、しかしこの年になると「ふりむいて ふりむいて 前に夢をもつ」ことはできないかとも思うのです。ですから何らかの夢をもちながらも、壁一枚のところで違う青春時代を過ごした二人の青年期のことをもうすこし話してみませんか。もちろん私は、一介のしかも優秀とは言い難い精神保健福祉士でしかありません。ですから生物学上のとか、医学上のとか、アカデミックな話をすることはできませんので、櫻井さん個人の視点に立った精神病の実態を軸に「健常」とは何かということについて考えさせていただきたいと言うお願いです。
そこでまず「主治医」や「薬」といった病気や障がいと切り離せない事柄のお話を聞いてみたいと思いました。
いかがでしょうか?
草々
荒木 浩
「手紙」を交わすふたり
櫻井 博
1959年生 57歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 当事者スタッフ(ピアスタッフ)
大学卒業後、職を転々としながら、2006年棕櫚亭とであい、当時作業所であった棕櫚亭Ⅰに利用者として通う。
・2013年 精神保健福祉士資格取得
・2013年5月 週3日の非常勤
・2017年9月 常勤(現在、棕櫚亭グループ、なびぃ & ピアス & 本部兼務)
荒木 浩
1969年生 48歳 / 社会福祉法人多摩棕櫚亭協会 ピアス 副施設長
福岡県北九州市生れ。大学受験で失敗し、失意のうち上京。新聞奨学生をしながら一浪したが、ろくに勉強もせず、かろうじて大学に入学。3年終了時に大学の掲示板に貼っていた棕櫚亭求人に応募、常勤職員として就職。社会はバブルが弾けとんだ直後であったが、当時の棕櫚亭は利用者による二次面接も行なっていたという程、一面のんきな時代ではあった。
以来棕櫚亭一筋で、精神障害者共同作業所 棕櫚亭Ⅰ・Ⅱ、トゥリニテ、精神障害者通所授産施設(現就労移行支援事業)ピアス、地域活動センターなびぃ、法人本部など勤務地を転々と変わり、現在は生活訓練事業で主に働いている。
・2000年 精神保健福祉士資格取得
もくじ
- 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
Part ❶ “はじまりにあたって – 荒木 浩“ 👉
2017年10月18日(水)公開
- 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
Part ❷ “発症時の記憶と病気の原因 – 櫻井 博からの手紙” 👉
2017年11月1日(水)公開
- 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
Part ❸ “病気の原因に対するささやかな反論 – 荒木 浩からの手紙” 👉
2017年11月15日(水)公開
(このページ)
- 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
Part ❹ “くくりつけられた心 精神科医との出会いを振り返る – 櫻井 博からの手紙” 👉
2017年11月29日(水)公開
- 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
Part ❺ “力強い生き方のヒント ~ 見立てと選択の連続を生きていく – 荒木 浩からの手紙” 👉
2017年12月13日(水)公開
- 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
Part ❻ “性格と病気について – 櫻井 博からの手紙” 👉
2017年12月27日(水)公開
- 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
Part ❼ “対談編” 👉
2018年1月17日(水)公開
- 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
Part ❽ “失われた青春期と喪失感・発病 – 荒木 浩からの手紙” 👉
2018年1月31日(水)公開
- 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
Part ❾ “思春期を振り返る – 櫻井 博からの手紙” 👉
2018年2月14日(水)公開
- 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
Part ❿ “生き抜いてこそ~「辛さ」と「幸せ」の境界 – 荒木 浩からの手紙” 👉
2018年2月28日(水)公開
- 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
Part ⑪ “就労 クローズ就労での経験 オープン就労がなかった時代 – 櫻井 博からの手紙” 👉
2018年3月14日(水)公開
- 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
Part ⑫ “選んできた「人生に間違いという答えはない」 – 荒木 浩からの手紙” 👉
2018年3月28日(水)公開
- 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
Part ⑬ “ボーダーレス社会に生きるなかで – 櫻井 博からの手紙” 👉
2018年4月11日(水)公開
- 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
Part ⑭ “目には見えない境界線を越えて幸せをつかむ – 荒木 浩からの手紙” 👉
2018年4月25日(水)公開
- 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
Part ⑮ “棕櫚亭の理念を担う – 櫻井 博からの手紙” 👉
2018年5月9日(水)公開
- 《最終回》 『往復書簡 1 – 櫻井博 と 荒木浩』
Part ⑯ “半年の往復書簡を振り返って 対談編”
2018年5月31日(木)公開
Photography: ©宮良当明 / Argyle Design Limited