特集/連載 Part ❾『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “始まりはボランティア”

法人本部 2019/02/08

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

始まりはボランティア

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
地域活動支援センターなびぃ 職員 工藤 由美子
(精神保健福祉士)

出会い

あれは1990年ごろ、20年近く勤めた教師の仕事を辞め、立川に引っ越してきた私は、主婦の仕事と週2日ほどのアルバイトではなんとなく物足りなくなり、何かボランティアでもしてみようかと、立川市役所の一角にあった(当時)社会福祉協議会の事務所に行ってみました。そこで、担当の職員さんから、家から徒歩10分ぐらいで行ける棕櫚亭Ⅱ(だいに)を紹介していただきました。

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その頃、Ⅱは開所して間もない時で、高松町のマンションを借りて、所長の寺田さんと若い男性スタッフの天野豊さん(いずれも当時)がいました。個性豊かな利用者の皆さんが代わる代わるやってきて、奥の一室は「タバコ部屋」と呼ばれ、いつも紫煙がもうもうだったことを覚えています。

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会 地域活動支援センターなびぃ 工藤 由美子

地域活動支援センターなびぃ | 工藤 由美子

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私は、毎週金曜日の午前中に伺って、利用者さんと昼食作りをさせてもらいました。一緒に買い物に行ったり調理をしたり、さりげないおしゃべりをしたり。出来上がった昼食を一緒に頂いて、だんだん名前も憶えて、自然にみなさんと打ち解けていったような気がします。当時の私は、精神の病いのことはほとんど知識がなかったので、利用者さん一人一人の事情や大変さには思い至らず、少しでも役に立ってもらえれば嬉しいなぁぐらいの気持ちだったと思います。さらに、年1回の旅行に誘ってもらったり、忘年会にお邪魔したり、皆さんから思いがけない贈り物をいただいて、胸が熱くなったことなど、いまも忘れられません。

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また、その頃、多摩総合精神保健福祉センター主催のボランティア向けの講座があり、そこに参加することで、ほんの少しずつですが、精神の病気のことや作業所のことを知っていきました。その中で印象に残っているのは、国分寺の「はらからの家」の福祉ホームを見学したことです。その後の火災によって全焼してしまいましたが、1970年代、私が上京して初めて入居したアパートと同じく、真ん中に廊下のある古い木造の建物でした。古さのためだけではない、何とも言えない寂寥(せきりょう)感があったのは、なぜだったのでしょう。

棕櫚亭の食という文化

その後、立川に棕櫚亭Ⅲ(だいさん)トゥリニテをオープンするに当たり、調理担当として手伝ってくれないかということで、他のボランティアの方々(4・5人ぐらい)とも会い、なんだかんだと相談の結果、カレーの店にすることになりました。中心になってくれる他のボランティアさんがいたので、私は、水曜日だけ通うことになり2人のボランティアで、店の開店から閉店まで切り盛りしました。
しかし、カレーだけではお客さんが増えない状況が続き、日替わりランチもメニューに入れることになりました。水曜日の担当として、毎週無い知恵を絞って、お客さんの喜んでくれそうなメニューを考えました。大変だったけれど、お客さんが来て完売するとなんとも嬉しかったこと。(初めは、一日十食でしたが)そして今思えば、ボランティアのやりたいようにすべてをまかせ、クレームもつけなかった職員の大らかさというか、懐の深さには敬服するばかりです。
その頃の棕櫚亭は、外の手コンサートや立川競輪場を会場にしての家具祭りなどの大きなイベントが毎年のように行ない、お弁当を作ったり、ビラ配りしたり、豚汁を作ったりとなんだか学園祭のような乗りで参加していました。

スタッフとして働くことになる

そんなこんなで数年ボランティアとして棕櫚亭にかかわった私は、1996年より非常勤スタッフとして棕櫚亭Ⅲに勤務することになりました。当時の施設長だった添田さんが、「精神保健福祉法」や「障害者手帳」の資料を出して、利用者のみなさんと勉強会のようなこともした覚えがあります。
翌年、ピアスの設立とともに転任し、厨房を中心に6年間過ごしました。その中で、私自身の意識も、ボランティアのおばさんとしてではなく、他のスタッフと同じように、支援の専門職としての力を少しでもつけていかなければと変化していきました。折しも「精神保健福祉士」資格が国家資格となり、試験に挑戦しました。50代の私にとっては、なかなか厳しいものでしたが、これまで福祉についての勉強を系統だってしたことのない私にとって、福祉全体のことが見渡せる、とてもよい機会だったと思います。

作業所の危機

その後自立支援法が成立し、棕櫚亭もその対応にあわただしい時を迎えます。私自身は病気で1年間休職しましたが、2008年の棕櫚亭Ⅰの谷保への引っ越しにかかわりました。
それに先立つ、引っ越し前の夏のある日の光景は、忘れることができません。それは、棕櫚亭Ⅰが、「地域活動支援センター」への移行を申請するに当たり、国立市の中には「棕櫚亭には、すでになびぃが地域活動支援センターとして存在するのだから、棕櫚亭Ⅰはなびぃと一緒にすればいい」という意見がある。Ⅰを独立したものにするには、利用者の思いを直接市長に訴えたほうがいいという市の担当者の計らいで、当時の国立市長と棕櫚亭側からは小林(現理事長)、工藤の両名と、利用者数名で懇談しました。市長の心を動かしたのは、職員の説明より、「安心していられる」「行く場所があって、みんなと会えるのが嬉しい」「生活にリズムができた」「料理ができるようになった」等等…… 自分の言葉で切実にあるいは淡々と語る利用者の姿だったと思います。
其のおかげもあって、翌年棕櫚亭Ⅰは「地域活動支援センターⅡ型」、なびぃは「地域活動支援センターⅠ型」と国立市から認められ、現在に至っています。この利用者の力は、引っ越し作業でも発揮され、寒くなり始めた12月、無事新しくなった現在の谷保の場所へ移ることができました。

30年近い関わりの中で今思う事

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会 地域活動支援センターなびぃ 工藤 由美子
それから10年近く、たよりない施設長だった私は、いつもいつも利用者のみんなに助けられてきたような気がします。様々な問題や課題はいつもありましたが、其の都度、利用者に問いかけ、相談し歩んできました。ぶつかることはあっても、お互いの信頼さえあればなんとかなる。棕櫚亭Ⅰで力をつけた利用者・職員が、次に来た利用者のために、あるいは新しい職場でその力を発揮し伝えていけたら、こんな素晴らしいことはありません。

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そして私事になりますが、常勤職員としての定年を迎え、昨年の4月より週2日なびぃで非常勤職員として勤務しています。私でいいのかなと思いつつ、60代・70代の利用者も増えている今、行く場所・自分を必要としてくれる場所があることは、障害の有無に関わらず、とても大切なことだと痛感しています。高齢化が増々進む中、作業所の良さをもう一度生かしていくことは、棕櫚亭にとって外せない柱だとおもうのですが。

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最後に、ボランティアから出発した私が、なぜこんなに長く棕櫚亭にかかわることになったか。
それは、「私が私でいられる場所だったから」

 

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

「私が私でいられる場所だったから」という言葉は棕櫚亭に関わる多くの人が共通に持つ思いだと感じます。
「はらからの家」は私にとっても懐かしい思い出があります。病院から退院した当時、「はらからの家」の前にドラム缶で家庭用油から石鹸などを作っていました。「はらからの家」の伊澤さんが大学出たばっかりの頃だったので、何十年前か推し量ってしるべしです。
工藤さんの文中にある2008年の引っ越しと市長への請願も経験しました。まさにその頃は棕櫚亭Ⅰのメンバーとしてライブで工藤さんと過ごしました。
工藤さんが現在なびぃで多くの電話相談者の声を聴いて的確なアドバイスができることも棕櫚亭で培った人間力のようにも感じられます。
「私が私でいられる場所」は工藤さん自身が築きあげたものですが、翻って考えるとメンバーさんにとってそこは心地よい場所なのです。

あたたかい日のあたるその場所は次世代に確実に受け継がれていると思います。

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

もくじ

 

特集/連載 Part ❻『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “Keywordは、「就労」「ピア」「生活」「食事」…かな。”

法人本部 2018/12/07

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

Keywordは、「就労」「ピア」「生活」「食事」…かな。

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
障害者就業・生活支援センター オープナー 森園 寿世
(精神保健福祉士)

違和感 ~ 精神科病院での実習

私は福祉の仕事に就くために、福祉系の学校に進学し、そこで実習先に精神病院を選んだことから、今の仕事とつながっていくことになりました。

その精神科病院での実習は女性の半開放病棟で行なうことになりました。
学生実習なので、当然夕方には終了するのですが、半開放病棟を出て、事故も無く終えたことにホッとした瞬間、背後でガチャンと重い扉と鍵のしまる音にドキッとしたことは今でも鮮明に覚えています。

また、病棟では、看護婦長が入院患者さんたちを対象に料理教室を開いていました。
看護婦長は一人で手早く料理を進めて、患者さんたちは手持ちぶさたです。
料理教室なのに、なぜ患者さん達に料理をさせないのかを聞いた時に、「この人たちは普段から『ああしろこうしろ』と言われているので、この時間くらいは、何もしないでいいようにです」と返ってきた答えに、なんか変、それはおかしいという違和感が心に芽生えました。

また、同じ看護婦長から、「この人たちはもう退院できるはずなのに、家族が受け入れを拒否しているから、ここにいるしかない」という事も聞きました。
自分の中のちっちゃな正義感みたいなものがうずいた大きな体験でした。

学生実習では色々な感情に揺り動かされました。そしてこの空間がもたらす違和感のようなものが私の心に、こびり付いたような、そんな感情も生まれました。

棕櫚亭との出会い

卒業後は、精神に携わる仕事に就きたいと精神科病院の就職を希望し、門をたたいたものの、残念ながら機会は得られませんでした。一方地域に目を向けた時、当時はまだ精神衛生法の時代、作業所といわれる施設はほんの一握りでした。

学校を卒業してから更に10年、時代は衛生法から精神保健法に変わっていた頃、棕櫚亭の求人情報と出会いました。応募の電話を入れたところ、「まずは棕櫚亭Ⅰ(国立市・谷保)に来てメンバーと一緒に作業実習をやってみて」と言われ、尋ねたところは、古い一軒家の広い民家でした。

ウエス(雑巾)作りや昼食作りのグループに別れて、にぎやかに作業をしていて、代わる代わるメンバーさんが私に話しかけてきてくれました。主に、年上の穏やかな男性メンバーさんが、この棕櫚亭の説明をしてくれました(後にこのメンバーさんはSSクラブ [生活就労支援部 1] のリーダー役になる方でした)。この日、あんまり職員の方とは話した記憶はありません(笑)。作業所は学生時代に実習をした精神科デイケアの雰囲気より、もっともっとフランクな雰囲気でした。この作業所の中では自分の中に芽生えた違和感が少しずつ払拭されていく感じがしました。

作業実習後の二次面接の日程は、「追って連絡する」と言われていました。ところが、私は自分の履歴書を渡し忘れたまま帰ってきていました。そのうえ、渡し忘れていることさえも忘れていたのです。その後、奇跡的に前理事長の天野さんが、住所も電話番号も判からない私を探しあててくれたのです。そんな間抜けなことをする人間によく働く機会をいただけたと思いましたが、反面「これは天命かもしれない(笑)」というくらいに感動しました。そして、今もこの棕櫚亭で働いています。

※1…SSクラブでは先駆的に「精神障害者の生活と就労を考えるプログラム」を提供していました

「どんな仕事をしたいのか?」自己に向き合う

二次面接を経て無事採用後、「喰えて、稼げて、寛げて」をコンセプトにしていた棕櫚亭Ⅱ(だいに・当時立川にあった作業所)に配属されました。再開発され始めたばかりのファーレ立川の近くにある手狭のアパートの一室。タバコ部屋もあって茶色い壁とタバコの臭いを思い出すと今も鼻がむずかゆくなります。この棕櫚亭Ⅱは開所当初から「働いて稼ぐ」ことを目的にした作業所でした。精神障害者が社会で働くなんて一般には想像できない、この時代に、棕櫚亭ではすでに打ちっぱなしのゴルフ練習場の早朝の集球作業をメンバー数人で取り組むグループ就労が行われていました。

20181205130125ほとんどが私より年上の男性メンバーさん方で、喧嘩もあれば、ちょっと女性が聞き辛い話(今で言うセクハラ 話?)もありました。働くことを目指すといっても、作業が終わるとマージャンを毎日のようにやっていました(近所のおじさんたちの集まるサロン!?)。でも、麻雀牌を捨てながら、誰かが「家族とうまくいっていない、そもそも自分の病気のせいで、家族に大変な思いをさせてしまった、だからいま寂しくても仕方がない」なんて話し出すと、そうだよな…… Aさんは大変だよなぁと相槌を打ちながら聞いてあげています。
当時の作業所には面談室もなく、職員とメンバーとの相談はリビングです。聞くともなく他のメンバーさんも相談話しが耳に入ってきたり……。メンバーにとって、自分の家のように思える場所を、スタッフと一緒に作っていたように思います。

その中で、私もまた彼らとの向き合い方を考え始めるのですが、「職員の役割は何なのか? 」「メンバーと私が違うのは、車の運転をする事と作業所の会計の仕事をする事だけなのか?」……。
なぜ仕事として彼らに関わりたいと思ったのか悩み始めることになりました。

それからまもなく、時代は精神保健福祉法となり、精神障害者保健福祉手帳制度が創設されました。作業所では、メンバーさんを集め、手帳に関する勉強会などが始められました。
そして、棕櫚亭にはSSクラブ(生活就労支援部)が作られました。
SSクラブは、仕事やピアカウンセリング(当事者同士によるカウンセリング)について学んだり、「働くこととは自分達にとってどのような意味があるのか」などのディスカッションしたり、活気のある場でした。
ある時、メンバーさんに限らず、職員も「自分はどんな支援がしたいのか?なぜそう思うのか?」というテーマで一人一人プレゼンをする機会がありました。
その場で、私はうまく話すことができませんでした。改めて自分の考えをきちんと話せない自分にとてつもなく落ち込んだのを覚えています。
むしろ、メンバーさん達の頑張りを見れば見るほど、またもや自分の役割や何をするべきなのか、自分の生き方は何だろう。私は、何をしたいのだろうと。自己と向き合うことが益々多くなりました。よもや30歳を過ぎてこんなに迷うとは思っていませんでした。
また、ある日、先輩職員から「勤務時間でない時間でもメンバーとどう関わっていけるかが大事」というアドバイスをもらいました。とても大切なメッセージをもらったと思っています。

棕櫚亭の作業所を象徴するword

時代は自立支援法、障害者総合福祉法と移り、こなさなければいけない業務量も事務量も増え、メンバーとの関わりの時間もタイトになってきました。例えば私の関わる就労支援では、企業の参入など目まぐるしい動きの中で、福祉がサービス化されていく流れがあります。時代の流れの中でものごとを見失いそうになるときもあったりします。そして、難しくなってきた支援自体に行き詰ることもあります。
その中でも、私を受け入れてくれるメンバーやスタッフの懐の深さに救われながら、仕事を続けられています。私も気がつけば棕櫚亭のキャリアも長いほうの部類に入ってきました。たくさん語りたいことはありますが、紙面の関係もあり書き尽くすことができません。従って私が考える、棕櫚亭を象徴するKeywordをお伝えしたいと思います。このwordは今もこの棕櫚亭に息づいていると思います。

私なりに受け取ったそのwordの意味が、作業所から始まる棕櫚亭の理念につながっているのだと思います。それを紹介して私の文章の締めとさせていただきます。

「就労」とは…自己実現の機会を作ること。
「ピア」「生活」とは…一人にしない。支えあうこと。

メンバー一人ひとりに丁寧に関わっていくことなど創設当初から変わらず、いまも引き継がれている棕櫚亭の大切な骨組みです。

そうそう、それから

「食事」もでした。
当初から、皆でご飯を作って一緒に食べることにこだわって、今でも続けている大切なプログラムです。
同じ釜の飯を食うのも、実は一番大切なことのひとつなのかもしれませんね。

 

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

森園さんのキーワード4つが息づいている棕櫚亭という法人が法律の改正とともに歩んできた姿が、手に取るようにわかる文章でした。現在法人のベテランに属する森園さんが、履歴書を出し忘れ、そのこと自体忘れたのに、天野理事長はどうやって探しあてたのだろうそんな疑問もわいてきます。昔のメンバーさんが自分の家のように感じて居場所にしていた棕櫚亭も、多くの人が行き交い、自身を社会へ飛び出させていった場所を今、訪れてみれば隔世の感もあるかと思います。でもその時代一緒に生きたスタッフは健在で、あの頃に話の華を咲かせることができるのも棕櫚亭の良さかと思います。あの頃指導していただいたメンバーの皆様も時々遠い日を目を細めながら思いおこしながら、今を生きている。そのようなメンバーさんの集まりが30周年の記念行事であり、再会し、ピアスで語りあった日々であることを考えると、歴史の重さを感じざるを得ません。この「30年にわたる思い」は今に至るまでずーっと脈々と生き続けています。ひしひしと感じながら今回読ませていただきました。

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

もくじ

 

特集/連載 Part ❺『ある風景 〜共同作業所〈棕櫚亭〉を、私たちが総括する。』 “悩みが許された時間と空間がそこにはあった”

法人本部 2018/11/16

ある風景 ~共同作業所棕櫚亭を、私たちが総括する。

悩みが許された時間と空間がそこにはあった

社会福祉法人 多摩棕櫚亭協会
ピアス 副施設長 吉本 佳弘
(精神保健福祉士)
私が過ごした作業所の風景

当時の棕櫚亭Ⅰ(だいいち)作業所は、公園清掃や昼食作りなどの作業とスポーツやウォーキングなどのレクリエーションが中心だった。30代から40代の元気な男性を中心にグループに力があり、勢いがあった。

ちょうどその頃、障害福祉分野の大きな転換点となる時期だった。『措置から契約へ』。他障害の分野では支援費制度が始まっており、精神障害者は支援費制度の枠からは外れたが、今までの医療モデルの考え方から、生活者モデルへの転換をどのように行なうかという時代だった。

施設長(当時)の満窪順子さんが、『棕櫚亭Ⅰがどうなりたいか』を職員だけでなく、参加するメンバーに声をかけ一緒に納涼会02考えようと、障害福祉関連のニュースや、文献をミーティングなどで紹介してくれていた。

その中に『クラブハウスモデル』があった。

クラブハウスモデルは1940年代にアメリカ・ニューヨークではじまった。デイプログラムというクラブハウスを運営していく『仕事』を、メンバーとスタッフが共同し行なっていくというものだ。従来の施設のように授産事業を行い、福祉的な就労の機会を提供するのではなく、『仕事』を行うことを通じ自助を育み、相互支援を行うことで自信を回復していくことを目的にしている。その活動は世界的に広まり、日本でも活動が行われている。

つまり、クラブハウスの活動は、単に作業を行うのではなく、自分達で作業所を運営し、自分の活動を発信する。価値ある仕事を誰もが担い、元気や自信を取り戻す。地域に閉ざされた楽園を作るのではなく、安心できる港を手に入れ、それぞれが船を出す。棕櫚亭Ⅰをそんな場所にしていきたいと皆の気持ちが固まっていくことになるのである。

棕櫚亭との偶然の出会い

そもそも、私は福祉職を希望していたわけではなかった。大学には行っていたものの、あまり勉強に集中していなく、モラトリアムを満喫していた。たまたま友人が社会学の単位取得のためにボランティア活動をしていて、立川社会福祉協議会に登録をしていた。大学2年の時に、その友人から外国人の健康診断を目的にした地域のお祭りがあるからと言われて、思いがけず手伝うことになった。思えばそこが福祉との接点だった。

近隣の学生や社会人が集められ、お祭りを賑やかなものにするために出店するというものだった。「何かを企画し、誰かと共同して作業する、お客さんに喜んでもらう」そんな共同作業はとても新鮮で楽しく、その後も何年かそのお祭りに参加している。そんなひょんな事から始まったボランティア活動であったが、いつの間にかお祭りの他にも身体障害者の介助や外国人の為の日本語教室のキッズルームで子守をするなどを始めてしまっていた。

大学4年の時に就職活動を早々に諦めて、バイトでもして暮らすかなと考えていたところに、立川社協の職員から『人と接して働くのが好きでしょ?』と言われ棕櫚亭の非常勤に応募してみないかとの誘いを受けた。元々人と接するのに緊張感を感じ、うまく馴染めないなとも感じていたのでその言葉を聞いた時にとても意外でビックリしたのを覚えている。

まぁ、それでも食っていかなくてはいけないのでとりあえず面接を受けてみることにした。面接は当時の理事長石川先生と天野さんだった。何を話したのかは覚えていないが、非常勤での採用が決まり、福祉の道に踏み出すことになったのだ。

職員としての思い、そして揺らぎ

棕櫚亭Ⅰ作業所に配属され、公園清掃や昼食作りをメンバーと一緒におこなっていたのだが、毎日が驚きの連続だった。私自身、それまでの人生で精神障害のある人たちとの接点がなく、福祉系の大学でもなかったので、今思い返すと恥ずかしながら精神障害と知的障害が何がどう違っているのかも全く知らず入職したのだ。

そのような状況の私が、「皇族の関係者ですよね?」とメンバーに言われたことは忘れられない経験の一つだ。

しかし、メンバーと作業を共にし濃密なかかわりの中で、一人一人の魅力的な部分に触れることになる。

料理が得意な人がいたり、笑顔がとても素敵な人もいた。棕櫚亭Ⅰはそんな彼らによって毎日が明るく盛り上がり、エネルギーが生み出されるそんな場所だった。ゆったりとふくよかな空間だったと今も心から思える。

ただ若かったあの日、ふとその一日を振り返った時に、なぜこんなに素敵な人たちが社会に出ることができず、社会の中では自信なげにすごさなくてはいけないのかという思いもわき、こころがかき乱されるようなこともあった。どういうわけだか気持ちがあせることもあったと思う。健康を疑わなかった自分のどこかに揺らぎをいつの間にか抱えているような気がした。

Aさんとの出会い

棕櫚亭Ⅰには、30代の男性で、Aさんという人がいた。棕櫚亭Ⅰのことを思い出すと彼の事が真っ先に浮かぶ。作業を一緒におこなったりすることも多く、同じ喫煙者という事で、灰皿の前で身の上話やバカ話をすることが多かった。

彼は棕櫚亭Ⅰのエネルギーの中心になっていた一人だった。

彼は周囲への気配りだけではなく、時におちゃらけムードを作ったりもできる人で、他の利用者も彼には一目置いていた。私は、そんな彼にとても魅力的に感じ、職員として何ができるんだろう、何かできないかと考えることが多かった。ミーティングなどでは必ず彼に話を振ったり、時に頼るようなこともしたと思う。そうすることが彼の発揮できる場所を作ることにもなるんだと心から思っていた。

しかし、それは勘違いだったのだと思う。彼はある時期から作業所に通所できなくなった。私は状況を理解できず、困惑した。『なぜこれなくなったのだろう?』

後に、私が良かれと思って親しく接したことや頼るようなことが、Aさんにとって、彼の兄弟関係を彷彿とさせるものだったと他の職員に聞かされた。自分の思いが彼にはとても負担だったようだ。

その後、私とは距離を置くことで、彼は徐々に復帰することができるようになった。理屈では負担だったことが理解できても、私はその後悶々とした時間を過ごすことになる。

時は過ぎ、少しほとぼりが冷めた頃だったと思う。多摩総合精神保健福祉センターで行われる『ピアカウンセリング』の研修があることをたまたま耳にしたAさんが、参加を希望したと聞いた。この研修は職員と一緒に参加することが条件となっていた。なぜだか、Aさんは私と一緒に参加したいと申し出てくれたのだ。このことをきっかけに徐々に彼とのやり取りが増えていったことのうれしさはあったのだが、しかし依然として職員としての距離や関わりというものにもやもやとした感情があったのも事実だ。

作業所のありようを皆で考える

その研修後、JHC板橋会の「クラブハウス」研修をAさんと一緒に受け、棕櫚亭Ⅰに持ち帰った。皆の関心も高く、私たちもよりクラブハウスについて知りたいということで、小平市にある「クラブハウスはばたき」で3日間の実習をすることになった。

「クラブハウスはばたき」では利用者が積極的に事業所の運営にかかわっていた。職員室などの職員専用のスペースは存在せず、誰でも自分の行きたいところに行くことができる。職員会議などはなく、運営について話し合う時間は誰もが参加でき強制されない。さらに、自分たちの活動を広報誌にまとめ、世界に発信していた。過渡的雇用(クラブハウスと企業が契約し、利用者が労働する)というクラブハウスから社会復帰へのきっかけがあり、安心感を持ちつつ就労にチャレンジしていた。

その時の私はクラブハウスを理解をするので精一杯だった。しかしAさんは職員と利用者の関係性など(クラブハウスモデルでは利用者と職員はパートナーシップといい、運営する上では協働する関係となっている)を利用者に質問をし、クラブハウスモデルがどんなものなのかをどんどん吸収していた。彼の姿勢に圧倒されっぱなしだった。

実習後、メンバーとクラブハウスに関するミーティングを行った。全員が、一致してクラブハウスを目指そうとなったわけではなかった。そこまで考えられないという人もいたし、そもそもそんな責任のあることは出来ないという人もいたように思う。

話し合いの結果、次のようなルールを皆で取り決めた。「作業以外にも工賃の計算や、実習生のふりかえり、利用希望者への説明、事業計画や総括、とにかく一緒に行うこと」「職員だけでの会議は持たない」「パートナーシップという関係を結ぶ」「みんなの事はみんなで考え、みんなで分担する」「クラブハウスの考えをすべて実現することはできないもののまずは自分達で出来る事を増やしていく」 メンバーの皆さんは誠実だったと思う。一方、できないこと、受け入れられないメンバーの気もちや姿勢を受け止める器が、作業所にはあった。

このような喧々諤々意見を交わしているうちに、一人一人の意識が変わっていくのがよく分かった。勿論、私自身もである。時に睡眠不足で身の入らない学生実習生に「誰か相談できる人はいないか?」と親身になったり、今まで、人の前に出る事が苦手な人がすすんでミーティングの司会をかってでくれるようになったり、引きこもりがちになっているメンバーを迎えに行き作業所まで同行する人がいたり、『GM(グループミーティング)』では幻聴で困っているBさんのためにみんなでその対策を考えたりと。人によってそれぞれだが、少しずつ少しずつ皆がすすんで行動する事が増えた。お互い思いやり、尊重される場があることで、安心してチャレンジすることができたように思う。自分のことだけを考えるのではなく、『みんなでみんなの事を』考えることが増えていった。何事も話し合いという労力と時間をかけながら。

あの時、そして今も思うこと

最後に平成17年度当時の活動報告会で、棕櫚亭Ⅰが年度の活動目標として掲げた言葉をお伝えしたい。

『棕櫚亭Ⅰで活動する私たちは人との触れ合いを、支えあいを大切にしたい、作業所の運営など意味ある役割を通じて、責任感や達成感を持ちたい。病気があっても一人の人間としていろいろな経験をして、より豊かな人生を送りたい…と願っています』

私は思いもかけず、この精神保健福祉の業界に飛び込んできて、今も色々な思いを抱えながら仕事をしている。自分の支援が正しいのか? 間違っていたのか? 悩むこともある。それは、今も昔も変わらないし、これからも揺らぎは続くであろう。ただ、この頃に棕櫚亭Ⅰの活動の中で考えたことは、悩み続けること、揺らぎこそ大切なことなのだということ。だから、Aさんとのことも私の気持ちの中では簡単に解決してはいけないことだったのだと思う。むしろ揺らぎの中で自分や自分達のことを深く考え、他者に思いを馳せ、そして何よりも、対話の中で相互理解しようとする姿勢が大切なのだと気付かされた。「パートナーシップ」という考えの基に。

作業所で「パートナーシップ」という対人支援の基本を体感できたこと、そしてそこで起こる葛藤が許された時間のながれと空間。これが、今も精神保健に携わる私にとって大切な宝物だと思う。

 

当事者スタッフ櫻井さんのコメント

吉本さんがボランティアから福祉業界に入ったのもこういうきっかけだったのかとわかりました。今、棕櫚亭の若手管理職として大切な仕事を担われている吉本さんにも若いころメンバーと語り、悩んだ日々があったことに、とても親近感を覚えます。メンバーもまたクラブハウスモデルの中で同じように役割を担い、変わっていったのかもしれないとも思えます。クラブハウスモデルは現在の棕櫚亭Ⅰに引き継がれていますが、初期の頃いろいろ試行錯誤した吉本さんの苦労が根をはっているように思います。この仕事に魅力を感じている他のスタッフも、メンバーさん達に育てていだだいたのだと思います。棕櫚亭Ⅰを皆でつくりあげた当時の思いをこれからも大切にしていきたいと深い思いに至りました。

編集: 多摩棕櫚亭協会 「ある風景」 企画委員会

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